角待ちは対空

おもむろガウェイン

エルデンリング、毒入りチョコレート事件、愚者のエンドロール。そして、千反田えるが巫女装束を着ていたという幻視。

エルデンリング Shadow of the Erdtree(DLC)すごかった。これはゲーム界の毒入りチョコレート事件なのだ。

エルデンリング(というかフロムのソウル系統のゲーム)は世界観が重厚でしっかりしてる、一方で明にそれを物語ることはしない。 我々プレイヤーは、アイテムのフレーバーテキストやNPCとの会話という形で全体像の断片を獲得し、それらをつなぎ合わせストーリーの空白を理解する。マリカとはどのような存在か、ラダゴンとは何者か、黄金律とは、破砕戦争とは。それらの謎を解き明かすため、狭間の地を駆け回りアイテムを入手し、テキストを読み込み、矛盾の内容につなぎ合わせ謎を解く。まさに我々は探偵であり、小説ではできない能動的な探偵体験の提供。それがエルデンリングの魅力であった。

しかし、褪人に祝福がないように、奉太郎君が愚者であったように、プレイヤーもまた宮崎英高から探偵として祝福はされていなかったとわかるのがDLCである。

推理小説の探偵が真実を解き明かせるのは、その作者が謎を解く役割を探偵存在に与え、物語をそこで終わらせるからである。その保証がなければ新証拠の登場によって無限に真実は書き変えることが理論上可能である。それが毒入りチョコレート事件の物語の構造の要諦である。

エルデンリングDLCはまさに毒入りチョコレート事件と同じ構造であった。破砕戦争の真実を解き明かしていた気になっていた我々はDLCでその先の真実を目の当たりにする。ただ単にストーリーが追加されたのではない。今まで我々が証拠だと思っていたテキストはDLCにより180度意味を変え、新たな解釈が生まれる。まさに多重解決ミステリーの醍醐味である。

マレニアの語る約束の意味、ラダーンと戦った理由、我々が出した結論はすべてミスリードであった。今振り返れば我々が出した結論は不自然であった、しかしそれに納得していた。何故ならばその時点で手に入る証拠で真実に辿り着けると思い上がっていたから。今ある証拠と最も整合性のある答えがそれであったから。宮崎英高はDLCにてその思い上がりを粉々に打ち砕く。我々ははじめから探偵として祝福されなかったのだった。

ところで愚者のエンドロールもまた毒入りチョコレート事件と同じ構造を持つ作品である。しかしその力点の置き場所は少々異なる。次々と出てくる証言を繋ぎ合わせパズルがごとく解答を創り出した奉太郎君は一体何を見逃していたのか?それは人間性である。千反田えるはそんな奉太郎の対となる存在であり、常に登場人物の人間性という真の謎と向き合おうとする存在だ。

今我々はマリカという人間と向き合わなければならない。Shadow of the Erdtreeはミケラの足跡を追うと銘打ちながら、その実はマリカの人間としての物語であった。我々には巫女も千反田えるもいないけれど、導きは示されている。律としてのマリカでも神としてのマリカでもない、人間としてのマリカに向き合わなければならない。

(導きを得て背筋がシャキッとする聖剣のルドウイークの画像がここに貼られる)


この文章はエルデンリングDLCは毒入りチョコレート事件であるという感想を抱いていたところ、千反田えるも巫女やってたやんけと気づきが電撃のように走った結果の文章である。けれど、冷静に考えると「千反田えるも巫女」は、巫女のバイトをしていた摩耶花と遠回りする雛で和装したえるが悪魔合体してできた存在しない事実であった。

エルデンリングありがとう。おそらく私の人生ベストエンタメに入るであろう。